『滝沢歌舞伎』“阿部が遊女ってヤバくない!?”っていう話
こんにちは。
すのちゅーぶ「記憶でお絵描き」回、ご覧になりました?
全員のツッコミが冴えわたる中、ラウちゃんの辛辣なワードチョスと突然の圧倒的めめあべにやられました。生きてます。
そして翔太くん、anan発売前重版おめでとうございます。重版男その2。
ということで今回もタイトル通り『滝沢歌舞伎』について。特に「桜の舞」の話をします…………。
ド新規ファンなので、もちろん生で見たことはなく、名前を聞いていた程度でしたが、DVDが出るということで、Snow Manのファンを名乗るなら見ないという選択肢はないたろうと思い、ゲット致しました。やったね。
すっごいごいごい(ゴイゴイスー)ざっと全体の感想を言うと、私が今まで触れてきた既存の舞台を想定しちゃいけないな!と思いました。
最初、どう受け入れればいいのかわからないという壁にぶつかったんですが、「あ、これは“ジャニーズエンターテイメント”なんだ」と気づいてからすんなり入ってきました。良い舞台体験をしたし、これは生で見るべきだな!って感じです。
個人的には「Maybe」がめちゃめちゃ好きです。ちゃんと受け取ると感情がぶんぶん振り回されてしんどいけど、それだけ美しい。さくラウのダンスとふかあべの歌、どちらも真っすぐ胸に届いてくる二組の共演が素晴らしいですね。
と、まあ全体の感想はこんな感じで本題に入ります。
第一部、ラストの演目である「滝沢歌舞伎」の中で行われる「桜の舞」、ご覧になりました?
Snow Man「滝沢歌舞伎ZERO」発売記念!ベストシーンはどこ?
この動画で、佐久間くんがベストシーンに選んでいる演目ですね。
動画内でも佐久間さんが教えてくださってたんですが、
阿部ちゃんが遊女ってヤバくないですか?
もうもうもう、興奮が止まらない() ここのブログ内でさんざん言ってる気がするんですが、わたし女装フェチなんですよね。だから、あべさくの女形も最高で最高に最高(語彙力)なんですが、何より、設定ですよ。
生娘佐久間と遊女阿部という事実、現実。
この二人にこの役を振り分けた方と握手がしたい。ソーシャルディスタンス握手。
(共演している渡辺さんガン無視で話が進みますが怒らないでください……)
で、何を思ったかというと、
「どうして佐久間さんが生娘で阿部ちゃんが遊女であることが、こんなにしっくりくるんだろう?」
というところ。
※当たり前ですが、全て“私”の感想ですので!おなしゃす。
阿部ちゃんも「女子アナ」なんて言われることがあるようにパブリックイメージは十分に「清楚」だと思うんですよ。
なら生娘でも良いんじゃん?とも思うんですが、女形が、生娘が、遊女が「役」であり、「お芝居」であることを鑑みると見えてくるものがあるなあっていう。
佐久間さんと阿部ちゃんのお芝居、広くは表現の仕方や捉え方って根本的に違うと思ってるんですよね。そこが「生娘」と「遊女」という割り当てに生きてるんじゃないかなって思う。
まず生娘佐久間さん。
改めて「生娘」ってなんぞってことで辞書引いてみると
「うぶな娘。まだ男性との性体験のない娘。処女。」(goo国語辞書より引用)
ということなんですが、いや、もう、この役を佐久間さんが演じてることにも大変興奮が(略)
つまり、生娘っていうのは「その個人の状態」なわけですよね。だから、佐久間さんは舞台の上で、“そのまま”の状態で“役”になっていなきゃいけない。もしかしたら歌舞伎の表現として「生娘」のある程度の型などがあるのかもしれないですが……(歌舞伎知識がないので詳しくはごめんなさい)。
私は過去記事でも佐久間さんを「表現者」と言い張ってるんですけど、まさに佐久間さんのお芝居・表現って「演じている」というより「“そう”なっている」っ感じじゃないですか?(語彙力の限界)
「役に入り込む、役を取り込む」という意味で、「佐久間のまま佐久間が死んでる」と思ってるんですよね……。
憑依型というんでしょうか。舞台上にいるのは、揺ぎ無く佐久間さんだけど、もっと体の芯から・心の芯からその人物として表現している感じがします。歌でも芝居でも。頭で計算してお芝居しているところは絶対にあると思いますが、それ以前に役を自分に吸収している感じがします。
そういう佐久間さんのお芝居の仕方や捉え方が、「生娘」という、“そのままの状態でそうである”役がバッチリ合うんだろうなって思います。伝われ。
で、逆に遊女・阿部ちゃんなんですけど。
一応こちらも辞書を引いてみる(笑)
「江戸時代、公認の、またなどにいた娼婦。女郎。娼妓 (しょうぎ) 。傾城 (けいせい) 」(goo国語辞書より引用)
つまり生娘とは逆に「遊女」は個人の性質や状態ではなく「職業」であり「役割」じゃないですか。まあ、細かいこといえば、実際の生娘と遊女って、話し方も違うし生活も違うし、個人の状態じゃんともいえるんですけど、置いといてください() 紙一重なんで(?)
阿部ちゃんのお芝居や表現のスタイルって、たぶん頭で把握していくタイプだと思うんですよ、論理的に。もちろん、阿部ちゃんの中から溢れる感情やパッションもお芝居には入ってると思うんですが、もっと本質的には、計算して、思考を積み重ねていくタイプな気がします。外堀から固めていく感じ。だから、何にしろ「演じている」んですよね。佐久間さんとは対に。
これは阿部ちゃんが頭良いからとか、そういうことではなく(関係ないことはないんですが)、歌の表現にしても何にしても「型」を掴んで自分に適用するのが上手だなという印象だからです。どこかで見たんですが、阿部ちゃんは自分の特徴や魅力を「勉強」や「資格」などで外付けしていくタイプなんですよね、そこが出てると思う。
遊女そのものも、客に夢を見せるために「役割」を演じて、もてなす職業じゃないですか。ただ体を開くわけではなくて。なんせ私は阿部遊女を勝手に高位な存在だと思っているので( ) お琴もできて教養もあるレベルの遊女だと思ってるので( )
つまり、何にしろ「計算」が必要なわけです。頭使って自分を演出する計算が。
こういう阿部ちゃんの表現のタイプと遊女の共通性が「めっちゃ似合う」を生み出してると思うんですよ。
なので、ざっとまとめると、
本質的なところで「計算しない“生娘”佐久間」と「計算する“遊女”阿部」という役とお芝居の共通性が、振り分けの適切さと対照性も相まって「似合う!」「しっくりくる」を生み出している。
っていう。伝われ!!
何より、ただの娘ではなく、“生娘”と“遊女”という、ある種、性的に対照的な存在を「共通点0の両想い」なんて言われる、対照的なあべさくが演じるエモですよ。お互いがお互いを補完して引き立たせるエモ。エモい!!!!ありがとう!!!!
ということで、『滝沢歌舞伎』は見返せば見返すだけ発見があって面白い作品だなと思います。ここから今のSnow Manがスタートした(ともいえる)んだと思うと、本当に大切な作品ですね。映画も楽しみです。私はあまりにも遊女阿部にやられすぎて、思えば第2幕を一回しか見てないことに気づきましたので見てきます(笑)
あと、遊女阿部でいうと「総踊り」の1:10:55あたりの遊女阿部がめっちゃあざとい角度であざとい顔してるので見てください。よろしくお願いします。
個人的には阿部亮平に性の香りを漂わせてくれたことに圧倒的感謝。
以上!